医者の使命 [図書室]
木々はその装いを変え、朝晩は冷え込む日が多くなってきた。
書きかけた電子カルテのディスプレイから目を外すと、医者は窓の外を見上げた。
ケヤキの木からは、風が吹くたびにはらはらと落ち葉が舞う。
ため息をつくと、医者は再びカルテの記入を始めた。
「デキナイ…」
そんなつぶやきは同僚の耳にも届かず、医局の空気に溶けていった。
------------------------------------------------------------------------
彼らが医者と患者から、男と女に変わったのはまだ暑い盛りだった。
傷を負った警官の診察を終えた医者は、夫の病室から出てきた彼女に話しかけた。
その夫は「不慮の事故」で一生寝たきり、回復の見込みはない。彼女はそんな男との別れを潔しとせず、
足しげく見舞いに来ていた。
桜の舞い散る中、警官とともに病院に駆け付けた彼女の顔を見た瞬間、すぐさま検査と入院を命じた。
それほど、彼女のDVはひどかったのだ。
そんな状況でも離婚に踏み切らない女。医者は彼女の気持ちが理解できなかった。
「お時間ありますか?あちらで少しお話ししませんか?」
「はい、少しくらいなら…」
医者の話にうなずく女性の顔に、長く伸びた西日が照り映える。
その端正な顔から、いつしか医者は目が離せなくなっていた。
-------------------------------------------------------------------------
先ほどまでその腕の中にいた女は、既にいない。
シャワーを浴びるかすかな水音が聞こえるだけだ。
既に何度目だろう、それでも彼女は彼の前で服を着替えることはない。
いつもそうするように、シャワーを終えた女は身づくろいを済ませ、彼の前に姿を見せる。
その顔からは、DVの痕跡をうかがうことはできない。白い裸身からも同様だ。
しかしそれでも、彼女はその体を医者にさらすことはなかった。
「結婚してほしい。」
「子供が産めないことなんか気にしない。」
繰り返された問答は、この日も無言の拒絶によってたばこの煙と一緒に宙に消えていった。
彼女はうつむいたまま立ち上がると、男の衣服をハンガーにつるした。
几帳面なほどに折り目を合せ、靴を揃える。そのことを笑いながら指摘すると、
「片付け魔なの、前はこんなじゃなかったのに…。おかしいでしょ?」
おそらく散らかった部屋が、夫をいら立たせていたのだろう。
暴行の痕跡を、黙って片付ける彼女の後姿が浮かぶ…
痛みをこらえ、彼女は何を思いながらそれをしたのか、愛情故か、それともあきらめだったのか…
…おれが、彼女を守る…
狂おしいまでの愛とともに、強烈な使命感が彼の体を満たしていく。
しかし、法的に不倫関係でしかない医者には、その決意もむなしいだけだ。
-------------------------------------------------------------------------
警官は来週にも退院となる。
今日も見舞いに訪れた女性の、明るい笑い声が病室を満たしていた。
どうやら、「被害者」と「警官」の関係が変化しているようだ。女性は病院からもほど近い山の手に住んでいるらしい。
警官にとっては「玉の輿」だろう。
警官の診察を終え病室を出る。何だろう、何かが引っ掛かっている。
その疑問を振り切るように、「夫」の病室へ向かった。
ドアに手をかけると、人の気配がする。彼女が来ているのか。
ドアから手を放し、深呼吸を繰り返す。
ドアを開けた。
最初は見間違いかと思った。しかし、はじかれたように振り向いた彼女の右手は、
人工呼吸器のスイッチに触れてはいなかったか…。
おそらく、誰もいない病室で何度も繰り返された復讐劇。
その瞬間、医者は先ほどの疑問の答えを得た。
そして、自分が彼女の伴侶となるための、唯一の方法を悟った。
------------------------------------------------------------------------
その日ケヤキから、最後の葉が落ちた。
医者はいつもの通りに医局を出た。いくつかの病室を回った後、「夫」の部屋につくと、いつも通り彼に話しかけた。
「どうですか?」
淡々といつもの作業を行う医者を、男は感情のこもらない目で見上げた。
看護婦の院内PHSが震えたのはその時だった。近くの病室でのナースコール。
医者は先に行くように指示を出す。看護婦は医者と男に会釈すると、足早に病室を出た。
医者は、男の耳元に口を寄せる。
「もう、いいでしょう? あなたが何をしてきたか、私は知っている…。」
「…これを彼女にさせるわけにはいかない。」
医者は点滴の針を抜くと、ポケットから注射器を取り出した。
男の動かない体の代わりに、その眼が何かを訴える。
ゆっくりと、だが確実に彼の体はその営みを止める。
解剖したって証拠の残らない薬なんて、いくらでもある。
医者が本気なら、犯罪行為そのものが存在しなくなるのだ。
几帳面な彼女。
落ちていた空き瓶。
そして彼女は交番へ向かう。
彼女と結ばれるために、自分ができること。そして、しなければならないこと。
医者は点滴の針を戻し、次の病室へ向かう。
次の患者が、彼を待っている。
------------------------------------------------------------------------
さて、今週の「あとがき」です。
今週の展開はいかがでしたか?猫師匠と違って読むのがしんどくなる、暗い話ですね。
もう、読むのも嫌になってきますね。 なんて暗い奴なんだ!この作者は!
他の連載が明るい分、より一層ダークさが際立ってるような気もします。見捨てないでね。
ということで、もうちょっと続きます。ほんとに収拾がつくのでしょうか?
不安でなりません。書いた本人が言っているのですから、本当です。たぶん。
コメントお寄せ頂いた皆さん。ありがとうございます。
自系列が分かりにくいとのコメントもいただいています。書いた本人はこれで良しと思っているのですが、
「思いこみ」の部分がどうしても生じてしまいます。貴重なご意見ありがとうございます。
いただいたコメントについては、別途きちんと回答させていただきます。
「連載」の形での作品発表は初めての経験なので、試行錯誤が続いています。
いや、「書き下ろし」もやったことがないんですが…
広げるだけ広げた「想像の余地」を、少し狭めてみました。
一応、1作目にまいた種を刈り取る内容にもなっています。「ああ、この描写が…」
と思っていただけたら、書いてきた甲斐があるというものです。
さて、最後に皆さんにご連絡です。
THノベルスですが、来週は休載とさせていただきます。再開時期は未定です。
というのは冗談で、隔週連載になります。
ネタ切れだから?いえ、そんなことはないですよ。ちゃんとプロットは存在します。
次の展開を予想するもよし、最初から通しで読み直すもよし。
ただ、「飽きちゃった」り、「忘れられちゃった」りしないことを祈るばかり。
ではまた、「さ」来週!
書きかけた電子カルテのディスプレイから目を外すと、医者は窓の外を見上げた。
ケヤキの木からは、風が吹くたびにはらはらと落ち葉が舞う。
ため息をつくと、医者は再びカルテの記入を始めた。
「デキナイ…」
そんなつぶやきは同僚の耳にも届かず、医局の空気に溶けていった。
------------------------------------------------------------------------
彼らが医者と患者から、男と女に変わったのはまだ暑い盛りだった。
傷を負った警官の診察を終えた医者は、夫の病室から出てきた彼女に話しかけた。
その夫は「不慮の事故」で一生寝たきり、回復の見込みはない。彼女はそんな男との別れを潔しとせず、
足しげく見舞いに来ていた。
桜の舞い散る中、警官とともに病院に駆け付けた彼女の顔を見た瞬間、すぐさま検査と入院を命じた。
それほど、彼女のDVはひどかったのだ。
そんな状況でも離婚に踏み切らない女。医者は彼女の気持ちが理解できなかった。
「お時間ありますか?あちらで少しお話ししませんか?」
「はい、少しくらいなら…」
医者の話にうなずく女性の顔に、長く伸びた西日が照り映える。
その端正な顔から、いつしか医者は目が離せなくなっていた。
-------------------------------------------------------------------------
先ほどまでその腕の中にいた女は、既にいない。
シャワーを浴びるかすかな水音が聞こえるだけだ。
既に何度目だろう、それでも彼女は彼の前で服を着替えることはない。
いつもそうするように、シャワーを終えた女は身づくろいを済ませ、彼の前に姿を見せる。
その顔からは、DVの痕跡をうかがうことはできない。白い裸身からも同様だ。
しかしそれでも、彼女はその体を医者にさらすことはなかった。
「結婚してほしい。」
「子供が産めないことなんか気にしない。」
繰り返された問答は、この日も無言の拒絶によってたばこの煙と一緒に宙に消えていった。
彼女はうつむいたまま立ち上がると、男の衣服をハンガーにつるした。
几帳面なほどに折り目を合せ、靴を揃える。そのことを笑いながら指摘すると、
「片付け魔なの、前はこんなじゃなかったのに…。おかしいでしょ?」
おそらく散らかった部屋が、夫をいら立たせていたのだろう。
暴行の痕跡を、黙って片付ける彼女の後姿が浮かぶ…
痛みをこらえ、彼女は何を思いながらそれをしたのか、愛情故か、それともあきらめだったのか…
…おれが、彼女を守る…
狂おしいまでの愛とともに、強烈な使命感が彼の体を満たしていく。
しかし、法的に不倫関係でしかない医者には、その決意もむなしいだけだ。
-------------------------------------------------------------------------
警官は来週にも退院となる。
今日も見舞いに訪れた女性の、明るい笑い声が病室を満たしていた。
どうやら、「被害者」と「警官」の関係が変化しているようだ。女性は病院からもほど近い山の手に住んでいるらしい。
警官にとっては「玉の輿」だろう。
警官の診察を終え病室を出る。何だろう、何かが引っ掛かっている。
その疑問を振り切るように、「夫」の病室へ向かった。
ドアに手をかけると、人の気配がする。彼女が来ているのか。
ドアから手を放し、深呼吸を繰り返す。
ドアを開けた。
最初は見間違いかと思った。しかし、はじかれたように振り向いた彼女の右手は、
人工呼吸器のスイッチに触れてはいなかったか…。
おそらく、誰もいない病室で何度も繰り返された復讐劇。
その瞬間、医者は先ほどの疑問の答えを得た。
そして、自分が彼女の伴侶となるための、唯一の方法を悟った。
------------------------------------------------------------------------
その日ケヤキから、最後の葉が落ちた。
医者はいつもの通りに医局を出た。いくつかの病室を回った後、「夫」の部屋につくと、いつも通り彼に話しかけた。
「どうですか?」
淡々といつもの作業を行う医者を、男は感情のこもらない目で見上げた。
看護婦の院内PHSが震えたのはその時だった。近くの病室でのナースコール。
医者は先に行くように指示を出す。看護婦は医者と男に会釈すると、足早に病室を出た。
医者は、男の耳元に口を寄せる。
「もう、いいでしょう? あなたが何をしてきたか、私は知っている…。」
「…これを彼女にさせるわけにはいかない。」
医者は点滴の針を抜くと、ポケットから注射器を取り出した。
男の動かない体の代わりに、その眼が何かを訴える。
ゆっくりと、だが確実に彼の体はその営みを止める。
解剖したって証拠の残らない薬なんて、いくらでもある。
医者が本気なら、犯罪行為そのものが存在しなくなるのだ。
几帳面な彼女。
落ちていた空き瓶。
そして彼女は交番へ向かう。
彼女と結ばれるために、自分ができること。そして、しなければならないこと。
医者は点滴の針を戻し、次の病室へ向かう。
次の患者が、彼を待っている。
------------------------------------------------------------------------
さて、今週の「あとがき」です。
今週の展開はいかがでしたか?猫師匠と違って読むのがしんどくなる、暗い話ですね。
もう、読むのも嫌になってきますね。 なんて暗い奴なんだ!この作者は!
他の連載が明るい分、より一層ダークさが際立ってるような気もします。見捨てないでね。
ということで、もうちょっと続きます。ほんとに収拾がつくのでしょうか?
不安でなりません。書いた本人が言っているのですから、本当です。たぶん。
コメントお寄せ頂いた皆さん。ありがとうございます。
自系列が分かりにくいとのコメントもいただいています。書いた本人はこれで良しと思っているのですが、
「思いこみ」の部分がどうしても生じてしまいます。貴重なご意見ありがとうございます。
いただいたコメントについては、別途きちんと回答させていただきます。
「連載」の形での作品発表は初めての経験なので、試行錯誤が続いています。
いや、「書き下ろし」もやったことがないんですが…
広げるだけ広げた「想像の余地」を、少し狭めてみました。
一応、1作目にまいた種を刈り取る内容にもなっています。「ああ、この描写が…」
と思っていただけたら、書いてきた甲斐があるというものです。
さて、最後に皆さんにご連絡です。
THノベルスですが、来週は休載とさせていただきます。再開時期は未定です。
というのは冗談で、隔週連載になります。
ネタ切れだから?いえ、そんなことはないですよ。ちゃんとプロットは存在します。
次の展開を予想するもよし、最初から通しで読み直すもよし。
ただ、「飽きちゃった」り、「忘れられちゃった」りしないことを祈るばかり。
ではまた、「さ」来週!
THさん、今回も背筋が寒かったです。
決して重くも暗くもありませんよ。怖いけど。(^^;)
話が繋がりましたねぇ。
これから先、どうなるのでしょうか?
しかし医師の取った行動は、動機自身は身勝手で独善的で
非道極まりない行為なのですが、少なくとも二人は満足する
行為ですね。医師と夫。妻は怒り狂うのでしょうね。きっと。
次回も楽しみにしています。
by A.U. (2009-06-25 12:41)
まさか、医者とDV奥おくさん(違うジャンルの香り?)が・・・。
予想ははずれたようです(顎)
しかし、縺れた糸が解れたように見せておいて、おっと!!そんな展開が隠されていた!なんてと勝手に妄想いや想像しちゃいました。(笑)
AUさんが書いているように、私も次回が楽しみです。
by 026 Old Y (2009-06-26 13:25)
まだ私の中では「半落ち」です。
DV被害者の妻側はわかりましたが、警官側がまだつながっていません。ここで推論書いちゃうと読者の推論の楽しみが半減してしまいますので書きませんが。今回でもヒントはありますが、断定はできないので次回以降に明かされるのを期待します。
起承転結でいえば、今回が転でしょうか。次回も転なのか、結に入るのか。期待してます。
と。一点だけ。「医者の話にうなずく女性の顔に、長く伸びた西日が照り映える。」 暑い盛りに長く伸びるのは夕日で、西日が長く伸びるのは晩秋から早春じゃないの、と、どうでもいいところに突っ込んでおきます。
by 056 kk (2009-06-26 17:15)
今回は、医者の視点。
つながれていくストーリー。
最初のわたしのコメントがなんだったのかと思いつつ、
次回が楽しみです。
by 061 CSの語り (2009-06-28 11:36)
うむむ。読み違えていたか…時系列。
1.警官がブヨ男を「正当防衛」でボコりまくったことで彼の性癖が「覚醒」する。(第2話)
2.DV被害女性の夫が「事故」により意識があるだけの「人形」になる。(第1話)
と思って、第1話の「事故」への警官の関与を暗示しつつ、警官が「正義の暴力」をつづけていく…というストーリー展開を予想していましたが、そうではありませんでしたね。
で、今回は、医師の登場。しかも、この医師とDV被害女性との間のただならぬ関係。医師の勘違い殺人?…DV被害女性は、"夫”をいつでも殺害可能な状況にあることを彼に示し続け、精神的にいたぶることで復讐を果たそうと考えていると思っていましたが、医師が勝手に彼を安楽死?させてしまうなんて、DV男を救済してどーする?っとツッコんでおきます。
次回は警官がどんな形で彼なりの「正義の戦い」で物語に絡んでくるのか、楽しみです。
by 045 ch-k てゆーかC★ちさとでーす (2009-06-28 15:01)
ぼくも 読み違えていた。
連載モノだし。その点からずれてた。
いよいよ 事件が動き出しましたね。
ほかの指摘にもあるお巡りさんがどう絡んでくるか。
ゾクゾクします・・・
愛のかたち・・
by 032_oyasan @ まおたん。 (2009-07-01 12:47)