あたたかい北風の吹く街より ~ Page‐4 コンタクトをつくんなきゃ! [校長室]
あッ――、と思った瞬間に、それは私の親指と人さし指のあいだをするりと滑り落ち、洗面所の排水口に吸い込まれていった。
なんてこった。
私の部屋の洗面所には、流れ止めの〝ふた〟がないのだ。
気をつけていたのだけど。
懐中電灯を引っ張り出して、管のなかを覗き込む。
S字に折れ曲がった排水の溜まり口に濁った光が反射して、お目当てのものもそこに浮いているようないないような。
ストローを突っ込んでみたり、配水管を取り外そうとしてみたけれど、管はしっかり締めつけられていて、びくともしない。
どうやら、選択肢はひとつしかないようだ。
つまり、あきらめろと。
私は、新しいコンタクトをつくらなければならない。
* * * 歩き馴れた街並みだが、視界は右側半分が鮮明で、左側の半分は歪んでいる。
身体が右側に傾いているような感じだ。
真っ直ぐ歩いているつもりでも、心なし右側に逸れているような気もする。
私の視力は、左右ともにひどく悪い。いずれも 0.2 くらいで、おまけに乱視も入っている。それをコンタクトレンズで 1.0 とか 1.2 に矯正しているが、コンタクトを外すと一メートル先の文庫本のタイトルも見えないほどだから、裸眼で外出するのはとても危険なのだ。
だから、とりあえず右目にだけはコンタクトを装着していた。
視界が半分ぼやけて見えるのは、そのせいだ。
しかし、これは勘弁してほしくなるほどにバランスが悪い。子供のころ、レンズの代わりに赤と青のセロファン紙を貼った眼鏡をかけて見ると〝映像が飛び出して見える〟という立体映画があったが、世の中のすべてがあんな感じに見える。街じゅうがピカソのようなキュビズムで描かれている。
横断歩道を渡るときも、いつもならいっこうに気にしない信号無視だって怖くてできない。半分ぼやけたジョージストリートを、慎重に、慎重に歩きながら、私は〝グレイスブロス〟に向かっていた。オーストラリアでは〝デビッドジョーンズ〟と並ぶ大きなデパートで、たいがいの人は〝ブロス〟と略して呼んでいる。ブラザースの略だ。
ガラス張りになったインフォーメーションカウンターには、老眼鏡をかけた、白髪の、品のよさそうなおばあさんが座っている。
このデパートの、いわゆる〝受付嬢〟だ。
おばあさんはいつも笑顔で私を迎えてくれる。私がとかくブロスを気に入っているのは、このおばあさんのファンだからだ。
「コンタクト売り場? あなた、コンタクトをおつくりになるの? それだったらね、えっと……、どこだったかしら」
すると、私の後ろに並んだ女性客が、それなら三階よ、と教えてくれる。
「あら、そうなの。ご親切にありがとう、わたし知らなかったものだから。あなたも聞いたわね、コンタクト売り場は三階にあるんですって。よかったわね」
そう言っておばあさんも微笑む。
おばあさんはいつもこんな感じだ。こんな受付嬢は世界中のどのデパートを探したってここにしかいない。だから私はブロスが好きなのだ。
エスカレーターで上った三階は、婦人服売り場だった。
月末大売り出しの垂れ幕が売り場ごとに吊り下げられている。
ご婦人たちは山積みになったバーゲンセールのワゴンに身を乗り出して、押しくらまんじゅうのようなショッピングを楽しんでいる。
そのフロアの隅に、私は〝オプトメトリスト〟を見つけた。
私は、透けるようなショーツを纏ったマネキンや、黒や紫のランジェリーが陳列されている下着売り場の前を急ぎ足で通り過ぎた。視界の左側にある下着売り場はぼやけていて、まるでモザイクがかけられているようだ。
「はい、いらっしゃい」
オプトメトリストの受付ロビーには、瑞々しい頃のジェーン・フォンダによく似た女性が立っていた。彼女は、白衣のボタンを上から下まできっちり止めている。
「夕べ、コンタクトを落っことしちゃって……、それで新調したいんだけど」
「いいわよ、入って。そこに座ってて」
同じ台詞を彼女の家の玄関口で言われたら、私はちょっと感激するかもしれない。
私を担当したのは、トレーシーという名のオプトメトリストだ。
オプトメトリストというのは、テクニカルカレッジを卒業した専門の〝検眼士〟のことを言う。視力測定や眼球検査をしてカルテを作成し、コンタクトを注文するのが仕事だ。だから眼科医とはちょっと違う。
トレーシーから、いくつかの質問事項が記載されている表紙を手渡された。
記入事項はごくごく簡単なものだ。住所、氏名、性別、年齢、いつからコンタクトを使用しているか、眼鏡との併用はあるか、最後に検眼したのはいつか、これまでの眼球障害や病気等の経緯――。
記入事項を書き込む私の頭の上で、トレーシーがくすくすと笑っている。
顔をあげると、ごめんなさい、笑ったりして。気にせず続けて、と言ったが、私が用紙に目を落とすと、やっぱりくすくす笑っている。彼女には、ことあるごとに英和辞典を引く私が可笑しいらしい。
「辞書を持ってきたクライアントなんて、あなたが初めてよ」
だろうね。でも〝乱視〟なんて言葉は辞書がなきゃわからないもの。
「学生さん……、じゃないのね。ジャーナリスト?」
本当だよ。とてもそんなふうには見えないだろうけど。
私は検眼室に移るように言われ、カーテンで仕切られた奥の部屋に入る。清潔な、白い壁に覆われた検眼室にはハイテクを駆使した検眼器が二台並んでいる。トンボの眼鏡のような医療機器は日本製だった。
「いま使っているのはメニコンかしら?」
私は返答に窮した。覚えていない。ごめん、わからないんだけど。
「まぁいいわ。右目はコンタクトをはめているのよね。いったん外してもらわなきゃならないんだけど、洗浄液はわかる?」
私はまた返答に窮した。覚えていないのだ。ごめん、わからないんだけど。
トレーシーは、まぁいいわ、という顔をして、私の頬と目尻を押さえて右目のコンタクトを外した。
「じゃあ、ここに顎を載せて。それで向こうの文字を読んでみてくれる?」
私はトンボの眼鏡を覗き込む。
やり方は日本と同じだ。レンズを何度も交換し、その組み合わせで最適なコンタクトの〝度〟を選ぶというものだ。
ひとつだけ違うのは、これが日本だと〝C〟の字の開いているところを、上、下、左、と読み上げていくが、オーストラリアでは横一列に並んだアルファベットを左端から読んでいくという点だ。いちばん上の文字は〝E〟と〝Z〟だ。
「イー、ゼッド」
私は、ちょっと得意になって読み上げた。
最上列の二文字が読めたからではない。Zの発音だ。
オーストラリアでは、Zは[zi:]ではなく[zed]と発音するのだ。これを〝ズィー〟と言うと、この国では英語の未熟な人間とみなされる。
「そうね。じゃあ、次の列は?」
三メートルほど離れた場所にある電光掲示板の文字列が、一段ずつ下がっていく。
「C、P、T、Gかな。その横は……、見えません」
「ノー?」
なるほど。見えないときはノーと応えればいいらしい。
「イエス、ノー」
「ノーね、いいわ。そうしたら、今度はこっちの台に顎を載せてくれる? そう、そのまま真っ直ぐ前を見て」
隣のトンボの眼鏡を覗き込んで、緑地に黒い線で描かれた一点投影法のような図形を凝視する。その画像が消えると、自分の瞳がレンズの奥に映っていた。
「そのままでちょっとブリンクしてくれる?」
「ブリンク……? 何、ブリンクって」
トレーシーがお手本を示した。
なるほど、ブリンクというのは瞬きのことか。
ぱちぱちと瞬きをすると、トレーシーは、もっとゆっくりでいいのよ、とまたくすくす笑った。
* * *
ひと通りの検査をすませると、トレーシーはいったん部屋を出て行き、戻ってきたときには右手の人さし指の腹にコンタクトを載せていた。それを左目にはめてくれる。
「あれ……、あの、度が全然あってないみたいなんだけど。ものすごくボケてる」
「これはね、強度300のサンプルなの。あなたのコンタクトは強度が400だから、オーダーしなくちゃならないのね。つけたときの感じはどう? へんじゃない?」
「違和感は……、ないと思うけど」
「そう。じゃあ、その型でオーダーするけど、右目も検査はしたから、一緒に新しくする?」
私はちょっと考えてから、左だけでいいと応えた。
「本当は変えたほうがいいのよ、片方だけ新調するのはあまりよくないの。いままでのレンズには汚れも付いているし。それにね、いつも使っていると自覚がないかもしれないけど、度が少しズレてきているみたいだわ」
あたしだったら、あなたにぴったりのコンタクトを処方できると言いたいのかもしれない。それでも、特に不便は感じていないから新調するのは左目だけでいいと私は応えた。
白衣のボタンを上から下まできっちりと止めたトレーシーは、少し残念そうな顔をした。
「いいわ。じゃあ、左だけね。土日をはさむから、今日オーダーしても届くまでに一週間はかかっちゃんだけど、お急ぎかしら?」
えぇ、そりゃもう。
「そうよね。そうしたら……、何とか月曜日にはお渡しできるように急いでもらうわ。午後になると思うけど、それならいいでしょ。レンズが届いたら連絡するから、取りに来てちょうだい」
トレーシーはそう約束したけれど、視界の左側半分が遠くまでくっきりと、そしてはっきり見えるようになったのは火曜日の午後になってからだ。
だが、一日くらい約束の日を延ばされたからと言って、男は愚痴ったり、くどくどと文句を言ったりはしないものだ。どんなに順番待ちの列が長くても、誰ひとりとして不満を漏らさないのがオーストラリア人の長所だ。だから、私もそれに倣おうと思っている。
一日くらい約束の日を延ばされたからって、どうってことはない。
たとえ新聞を読むのがつらかったり、街を歩くのがたいへんで車に轢かれそうになったり、バスに乗れば気分が悪くなったとしても、私は文句など言わない。
視力の左右のバランスが悪いせいで端末に向かっているだけで頭痛がしてきたり、手許のコーヒーカップとの距離感がつかめなくて苛立ちが募ったとしても、私は不満など漏らしたりはしない。私はそんなに度量の狭い男ではないのだ。
それに、少し年上だけど、トレーシーは美人ではないか。
* * *
新しいコンタクトレンズを装着した左目が最初にとらえたのは、ボタンを上から下まできっちりと止めたトレーシーの白衣だった。
その瞬間から、ずっと歪んでいた視界は、あるべき元の正常な状態に戻った。
トレーシーの青い瞳もくっきりとよく見える。
「遅れてごめんなさいね」
「いや、ちっとも気にしてないよ」
私は、買い換えたばかりのテレビの鮮明な画像を眺めているような気分で応えた。
完璧な視力で見たトレーシーは、やっぱり美人だった。
左目を覗き込むように顔を近づけて、どうかしら、とトレーシーが訊く。視界は鮮明だが、ちょっとだけ度が強く感じられるのは、裸眼の日が続いたからかもしれない。
「少し様子をみなきゃならないわね。二週間してもおかしいと思ったら、もう一度来て。つくりなおすから」
私が〝ブロス〟を訪れたのは、それからきっかり二週間後の火曜日の午後のことだ。
月末大売り出しを終えた店内は、買い物客の姿もまばらになっていた。
困ったことに、今度は下着売り場に陳列されているランジェリーが見えすぎる。
オプトメトリストの入り口でなかを伺う私に気づくと、トレーシーは、あら、という顔をした。辞書を持参で訪れたクライアントの顔は忘れないものらしい。
「そうか、今日で二週間だったね……、やっぱり具合がよくなかった?」
「いや、そんなことはない。快適だよ。左目はよく見えるんだ、とてもね」
「じゃあ、何かしら」
ちょっと言いづらいんだけど――、と私は続けた。
できれば、その――、私は言いよどむ。
「悪いんだけど、右のコンタクトも新しくしてくれる?」
腕組みをしたトレーシーの左眉がかすかに上下し、いいわよ、と笑っていた。
なんてこった。
私の部屋の洗面所には、流れ止めの〝ふた〟がないのだ。
気をつけていたのだけど。
懐中電灯を引っ張り出して、管のなかを覗き込む。
S字に折れ曲がった排水の溜まり口に濁った光が反射して、お目当てのものもそこに浮いているようないないような。
ストローを突っ込んでみたり、配水管を取り外そうとしてみたけれど、管はしっかり締めつけられていて、びくともしない。
どうやら、選択肢はひとつしかないようだ。
つまり、あきらめろと。
私は、新しいコンタクトをつくらなければならない。
* * * 歩き馴れた街並みだが、視界は右側半分が鮮明で、左側の半分は歪んでいる。
身体が右側に傾いているような感じだ。
真っ直ぐ歩いているつもりでも、心なし右側に逸れているような気もする。
私の視力は、左右ともにひどく悪い。いずれも 0.2 くらいで、おまけに乱視も入っている。それをコンタクトレンズで 1.0 とか 1.2 に矯正しているが、コンタクトを外すと一メートル先の文庫本のタイトルも見えないほどだから、裸眼で外出するのはとても危険なのだ。
だから、とりあえず右目にだけはコンタクトを装着していた。
視界が半分ぼやけて見えるのは、そのせいだ。
しかし、これは勘弁してほしくなるほどにバランスが悪い。子供のころ、レンズの代わりに赤と青のセロファン紙を貼った眼鏡をかけて見ると〝映像が飛び出して見える〟という立体映画があったが、世の中のすべてがあんな感じに見える。街じゅうがピカソのようなキュビズムで描かれている。
横断歩道を渡るときも、いつもならいっこうに気にしない信号無視だって怖くてできない。半分ぼやけたジョージストリートを、慎重に、慎重に歩きながら、私は〝グレイスブロス〟に向かっていた。オーストラリアでは〝デビッドジョーンズ〟と並ぶ大きなデパートで、たいがいの人は〝ブロス〟と略して呼んでいる。ブラザースの略だ。
ガラス張りになったインフォーメーションカウンターには、老眼鏡をかけた、白髪の、品のよさそうなおばあさんが座っている。
このデパートの、いわゆる〝受付嬢〟だ。
おばあさんはいつも笑顔で私を迎えてくれる。私がとかくブロスを気に入っているのは、このおばあさんのファンだからだ。
「コンタクト売り場? あなた、コンタクトをおつくりになるの? それだったらね、えっと……、どこだったかしら」
すると、私の後ろに並んだ女性客が、それなら三階よ、と教えてくれる。
「あら、そうなの。ご親切にありがとう、わたし知らなかったものだから。あなたも聞いたわね、コンタクト売り場は三階にあるんですって。よかったわね」
そう言っておばあさんも微笑む。
おばあさんはいつもこんな感じだ。こんな受付嬢は世界中のどのデパートを探したってここにしかいない。だから私はブロスが好きなのだ。
エスカレーターで上った三階は、婦人服売り場だった。
月末大売り出しの垂れ幕が売り場ごとに吊り下げられている。
ご婦人たちは山積みになったバーゲンセールのワゴンに身を乗り出して、押しくらまんじゅうのようなショッピングを楽しんでいる。
そのフロアの隅に、私は〝オプトメトリスト〟を見つけた。
私は、透けるようなショーツを纏ったマネキンや、黒や紫のランジェリーが陳列されている下着売り場の前を急ぎ足で通り過ぎた。視界の左側にある下着売り場はぼやけていて、まるでモザイクがかけられているようだ。
「はい、いらっしゃい」
オプトメトリストの受付ロビーには、瑞々しい頃のジェーン・フォンダによく似た女性が立っていた。彼女は、白衣のボタンを上から下まできっちり止めている。
「夕べ、コンタクトを落っことしちゃって……、それで新調したいんだけど」
「いいわよ、入って。そこに座ってて」
同じ台詞を彼女の家の玄関口で言われたら、私はちょっと感激するかもしれない。
私を担当したのは、トレーシーという名のオプトメトリストだ。
オプトメトリストというのは、テクニカルカレッジを卒業した専門の〝検眼士〟のことを言う。視力測定や眼球検査をしてカルテを作成し、コンタクトを注文するのが仕事だ。だから眼科医とはちょっと違う。
トレーシーから、いくつかの質問事項が記載されている表紙を手渡された。
記入事項はごくごく簡単なものだ。住所、氏名、性別、年齢、いつからコンタクトを使用しているか、眼鏡との併用はあるか、最後に検眼したのはいつか、これまでの眼球障害や病気等の経緯――。
記入事項を書き込む私の頭の上で、トレーシーがくすくすと笑っている。
顔をあげると、ごめんなさい、笑ったりして。気にせず続けて、と言ったが、私が用紙に目を落とすと、やっぱりくすくす笑っている。彼女には、ことあるごとに英和辞典を引く私が可笑しいらしい。
「辞書を持ってきたクライアントなんて、あなたが初めてよ」
だろうね。でも〝乱視〟なんて言葉は辞書がなきゃわからないもの。
「学生さん……、じゃないのね。ジャーナリスト?」
本当だよ。とてもそんなふうには見えないだろうけど。
私は検眼室に移るように言われ、カーテンで仕切られた奥の部屋に入る。清潔な、白い壁に覆われた検眼室にはハイテクを駆使した検眼器が二台並んでいる。トンボの眼鏡のような医療機器は日本製だった。
「いま使っているのはメニコンかしら?」
私は返答に窮した。覚えていない。ごめん、わからないんだけど。
「まぁいいわ。右目はコンタクトをはめているのよね。いったん外してもらわなきゃならないんだけど、洗浄液はわかる?」
私はまた返答に窮した。覚えていないのだ。ごめん、わからないんだけど。
トレーシーは、まぁいいわ、という顔をして、私の頬と目尻を押さえて右目のコンタクトを外した。
「じゃあ、ここに顎を載せて。それで向こうの文字を読んでみてくれる?」
私はトンボの眼鏡を覗き込む。
やり方は日本と同じだ。レンズを何度も交換し、その組み合わせで最適なコンタクトの〝度〟を選ぶというものだ。
ひとつだけ違うのは、これが日本だと〝C〟の字の開いているところを、上、下、左、と読み上げていくが、オーストラリアでは横一列に並んだアルファベットを左端から読んでいくという点だ。いちばん上の文字は〝E〟と〝Z〟だ。
「イー、ゼッド」
私は、ちょっと得意になって読み上げた。
最上列の二文字が読めたからではない。Zの発音だ。
オーストラリアでは、Zは[zi:]ではなく[zed]と発音するのだ。これを〝ズィー〟と言うと、この国では英語の未熟な人間とみなされる。
「そうね。じゃあ、次の列は?」
三メートルほど離れた場所にある電光掲示板の文字列が、一段ずつ下がっていく。
「C、P、T、Gかな。その横は……、見えません」
「ノー?」
なるほど。見えないときはノーと応えればいいらしい。
「イエス、ノー」
「ノーね、いいわ。そうしたら、今度はこっちの台に顎を載せてくれる? そう、そのまま真っ直ぐ前を見て」
隣のトンボの眼鏡を覗き込んで、緑地に黒い線で描かれた一点投影法のような図形を凝視する。その画像が消えると、自分の瞳がレンズの奥に映っていた。
「そのままでちょっとブリンクしてくれる?」
「ブリンク……? 何、ブリンクって」
トレーシーがお手本を示した。
なるほど、ブリンクというのは瞬きのことか。
ぱちぱちと瞬きをすると、トレーシーは、もっとゆっくりでいいのよ、とまたくすくす笑った。
* * *
ひと通りの検査をすませると、トレーシーはいったん部屋を出て行き、戻ってきたときには右手の人さし指の腹にコンタクトを載せていた。それを左目にはめてくれる。
「あれ……、あの、度が全然あってないみたいなんだけど。ものすごくボケてる」
「これはね、強度300のサンプルなの。あなたのコンタクトは強度が400だから、オーダーしなくちゃならないのね。つけたときの感じはどう? へんじゃない?」
「違和感は……、ないと思うけど」
「そう。じゃあ、その型でオーダーするけど、右目も検査はしたから、一緒に新しくする?」
私はちょっと考えてから、左だけでいいと応えた。
「本当は変えたほうがいいのよ、片方だけ新調するのはあまりよくないの。いままでのレンズには汚れも付いているし。それにね、いつも使っていると自覚がないかもしれないけど、度が少しズレてきているみたいだわ」
あたしだったら、あなたにぴったりのコンタクトを処方できると言いたいのかもしれない。それでも、特に不便は感じていないから新調するのは左目だけでいいと私は応えた。
白衣のボタンを上から下まできっちりと止めたトレーシーは、少し残念そうな顔をした。
「いいわ。じゃあ、左だけね。土日をはさむから、今日オーダーしても届くまでに一週間はかかっちゃんだけど、お急ぎかしら?」
えぇ、そりゃもう。
「そうよね。そうしたら……、何とか月曜日にはお渡しできるように急いでもらうわ。午後になると思うけど、それならいいでしょ。レンズが届いたら連絡するから、取りに来てちょうだい」
トレーシーはそう約束したけれど、視界の左側半分が遠くまでくっきりと、そしてはっきり見えるようになったのは火曜日の午後になってからだ。
だが、一日くらい約束の日を延ばされたからと言って、男は愚痴ったり、くどくどと文句を言ったりはしないものだ。どんなに順番待ちの列が長くても、誰ひとりとして不満を漏らさないのがオーストラリア人の長所だ。だから、私もそれに倣おうと思っている。
一日くらい約束の日を延ばされたからって、どうってことはない。
たとえ新聞を読むのがつらかったり、街を歩くのがたいへんで車に轢かれそうになったり、バスに乗れば気分が悪くなったとしても、私は文句など言わない。
視力の左右のバランスが悪いせいで端末に向かっているだけで頭痛がしてきたり、手許のコーヒーカップとの距離感がつかめなくて苛立ちが募ったとしても、私は不満など漏らしたりはしない。私はそんなに度量の狭い男ではないのだ。
それに、少し年上だけど、トレーシーは美人ではないか。
* * *
新しいコンタクトレンズを装着した左目が最初にとらえたのは、ボタンを上から下まできっちりと止めたトレーシーの白衣だった。
その瞬間から、ずっと歪んでいた視界は、あるべき元の正常な状態に戻った。
トレーシーの青い瞳もくっきりとよく見える。
「遅れてごめんなさいね」
「いや、ちっとも気にしてないよ」
私は、買い換えたばかりのテレビの鮮明な画像を眺めているような気分で応えた。
完璧な視力で見たトレーシーは、やっぱり美人だった。
左目を覗き込むように顔を近づけて、どうかしら、とトレーシーが訊く。視界は鮮明だが、ちょっとだけ度が強く感じられるのは、裸眼の日が続いたからかもしれない。
「少し様子をみなきゃならないわね。二週間してもおかしいと思ったら、もう一度来て。つくりなおすから」
私が〝ブロス〟を訪れたのは、それからきっかり二週間後の火曜日の午後のことだ。
月末大売り出しを終えた店内は、買い物客の姿もまばらになっていた。
困ったことに、今度は下着売り場に陳列されているランジェリーが見えすぎる。
オプトメトリストの入り口でなかを伺う私に気づくと、トレーシーは、あら、という顔をした。辞書を持参で訪れたクライアントの顔は忘れないものらしい。
「そうか、今日で二週間だったね……、やっぱり具合がよくなかった?」
「いや、そんなことはない。快適だよ。左目はよく見えるんだ、とてもね」
「じゃあ、何かしら」
ちょっと言いづらいんだけど――、と私は続けた。
できれば、その――、私は言いよどむ。
「悪いんだけど、右のコンタクトも新しくしてくれる?」
腕組みをしたトレーシーの左眉がかすかに上下し、いいわよ、と笑っていた。
俺が見たいのはその後のストーリーなんですけど・・・
私も生まれつき乱視でコンタクトが無いと不便で仕方がありません・・・やっぱり特注だし・・・
この間もリビングでコンタクトを外すときに床に落としてしまい、拾おうとしたときに迫り来る足音。。。
両手両足を駆使して4匹の刺客は跳ね返したものの一番外を駆け上がった、残り1匹にペロット食べられてしまいました・・・
翌日、いつもの店に行くと、いつもの彼女に、いつもの口調で、「今日はどのワンちゃんに食べられちゃったんですかー?」・・・.....。
Zと5匹のチワワとの戦いは今日も続く・・・
by 002Z (2009-07-12 23:03)
それから、視力がもどったお祝いをしたいと思って。
キミを招待したいんだけど、何時に迎えにくればいい?
って、食事に誘ったんですね。わかります。
by 045 ch-k てゆーかC★ちさとでーっす(笑) (2009-07-12 23:33)
私事ながら、メガネを3つ持っています。
自宅用と外出用と運転用です。
> 彼女は、白衣のボタンを上から下まで
> きっちり止めている。
>
> 白衣のボタンを上から下まできっちりと
> 止めたトレーシー
>
> ボタンを上から下まできっちりと止めた
> トレーシーの白衣
『モテルヤツノ条件(仮題)』「も」楽しみに
しています。18の支城を従える難攻不落の
観音寺城の六角氏をロックアウト……でなくて
ノックアウトした織田軍の戦略は「支城を無視
して本城を集中攻撃」というものだったそう
ですが。
そもそも六角氏はですね、征夷大将軍・足利義尚
率いる幕府軍をゲリラ戦で苦しめて……なんて
書いたら止まらないので書きません(笑)。
by 020 前世紀 (2009-07-13 00:04)
姉弟?兄妹?兄弟?と言う名の店で働くトレーシー。
微妙で切なく甘いおもひでのにおひ。
いえ、決してバラの花とは関係はなく・・・
しかし、無償での記事、大丈夫ですか?
少なくともコメントしているZさん、ちさとさんパタやんと、私A.U.の
4人は今度ビールの一杯も差し出さなきゃダメですね。
××さんの文章を楽しんだんですものね。
by A.U. (2009-07-13 08:42)
××さん、面食いですよねえ。今さら言うまでもないけど。
私も人のこと言えませんが。
昔の××さんの文章読むのも楽しいけど、今、××さんが何を考えてるのかやっぱり知りたいと思ってしまいます。
だって同時代に生きているんだから。
過去の名作だけを読むのは、なくなってしまった作家についてもできる。
同時代に生きている醍醐味を味わわせてほしいのです。
と、同じことを甲斐さんにも思っているのだ。
甲斐バンドクラシックスもいいけど、今の甲斐さんを感じたい。
秋にはオリジナルアルバムを出すそうです。ツアーもあるでしょう。
今の甲斐さんに魅了されたい。
今の××さんに魅了されたい。
今の××さんを感じたい。
PS
けえさん、いつもアップありがとうございます!
by あやこねこ (2009-07-13 11:51)
そうやって口説いた女性を、
全員憶えていらっしゃるのでしょうか。
記憶力でノーベル賞が取れるかも。
Zさんのコメントに笑ってしまいました。
この後はビールを片手にバスに乗り込まなくては。
気になることがありまして。
コンタクトしたまま転寝するのってちょっと。。
じゃありませんか。
目が真っ赤になっちゃう。
転寝なんてしないよ、って?
嘘つきはいつも嘘をつくのでしたっけ。。。
なあんて、某人気映画コラムを
引用してみただけですわよ。
by 065 じん (2009-07-13 12:53)
>前世紀さん
やはり大事なことなので、でしょう。
---
2週間後にあえて行く、というところと少し照れながら右目の分をお願いするというところは非常に上手いですよね。
かくいう僕自身も視力は0.1とか0.2ぐらいなのですが、通常は裸眼で生活しております(ほんの少しだけ乱視も入っているのですが)。以前、とあるお店のお姉さん(年は僕より若かったかも)と会話をしている時にふと視力の話になり、
「僕は裸眼なんだけど視力がかなり悪くて、実は君の顔も完璧には見えてないんだ」
「(見た目に自信が無かったらしく)それは助かります」
「今日ほど眼鏡をかけていなかった事を後悔したことはないよ」
みたいにふざけながら話していたことを思い出しました。
××さんならどう返していたんでしょうねぇ。
by 073_村 (2009-07-13 13:47)
腕組みトレーシーの勝ち。
二週間できつめに慣らされてしまった。
体に刺激あるものに人間弱いからなぁ。
右に合わせろとは言えない所が
快感に弱いエッチなひとでした。
by 074 わからん (2009-07-14 22:47)
コンタクトひとつで これだけの文章がかけるんですね。
やはりプロ☆ そう思ったのがひとつ。
そしてもうひとつは、言いたいことはほとんど前のみなさんが書いてるので、××さん おねがいです。そのテクニック
つめの垢でもいいから伝授(盗み取らしてください・笑)
・・・ お深いレポ番外編でのネタにつながるかも(予告して自分の首を絞めるのでした)。
by 032_oyasan @ まおたん。 (2009-07-16 12:51)
レーシック、しようかな、と思っているところ。
by 010 辞書 (2009-07-16 22:38)
ぱちぱちの準備に追われてふと気付くと…
オージーコラムの更新止まってますね。
コメントしたこと無かったけど(ぉぃ、楽しみにしてるのにぃ。
7月末はけぇちゃんも大阪に来てたから無理かなぁ、とは
思ってましたが、
今週は、XX3がぱちぱちの時間を作るためにお忙しい?
ひょっとして……
「ここから先は有料コンテンツとなります」??
次のコラムお待ちしております。
せっかくなので感想もどき
これまで視力が良くてメガネやコンタクトとは無縁でしたが、
そろそろメガネデビューの時が近づいているようです。
観念して一度眼科へ行くべきかなぁ。
by 022 koge (2009-08-04 19:20)
2週間後ってところがキモなんですね
勉強になります♪
こうやって持ち込むのかぁwww
昨年の2月にレーシックをして以来
20年以上付き合ったメガネ&コンタクトに別れを告げました
むっちゃ快適です♪
by 071 Prince (2009-08-07 16:31)
そーやることで、トレーシーの元に通う理由を作るわけですね。
なるほど~~。。。
あ、コンタクトを着けられる人は無条件で凄いと思います。
正直、誰かがコンタクトを着けている姿を見るだけで未だに鳥肌がたちま不の。。。
by 11 @ なるへそ (2009-08-10 08:27)
眼鏡です。
コンタクトも持ってますが、滅多にしません。
先端恐怖症と慣れで、眼鏡かけてないと不安なんです
素顔は隠しているのさ、フフフ。。。
さて、大変遅くなりました、感想です。
一言で言うと、大変参考になりました。
こうやって落とすのか、と。
2週間後に会うきっかけを残しておく。
何かを残して続くきっかけを埋め込んでおく。
ビジネスにも使えますね。
若い頃だってのに・・・この人は策士だこと。
今はどんな仕掛けを埋め込んでいるのかなぁ・・・
by わいすけ (2009-08-13 11:51)