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重い槍とまごころの文章 [校長室]

 つい一週間ほど前のことだが、まりもと会った。

 ほとんどの方はご存じと思うけれど、彼女は marimotchi のハンドルネームでいつもコメントをくれる女の子だ。てっきり男性だと思っていたら実は女性で、おまけに marimotch と〝i〟を付け忘れてレスをしたら〝愛がない〟と叱られはしなかったけど、私のぼんくらぶりを見事に引き出した女の子でもある。

 ただでさえ私はコメントをくれた男性を女性と読み間違えたり、女性を男性だと勘違いしてしまう名手なのだ。実を言うと、さにも最初は男性だと思っていた。小坊主はいまだにどっちなのかまだわからない。悩む。二枚目なだけだから、私。

 二枚目と言えば、ちょっと前にある人からチョコレートをもらった。バレンタインデーは過ぎていたからバレンタインチョコとは違うかもしれないけれど、四枚入りのとてもお洒落な高そうなチョコレート。

 何故こんなことを書くかというと、それはみんなからチョコレートのみならず他の贈り物をもらいたいから……、じゃなくて、福沢諭吉のブロマイドならいくらでも受けつけるのだが、ということが言いたいわけでもなく、しかしいただけるなら連番でもバラでもどちらでも構わないし、束ねられるくらい厚いほうがありがたいけど、全部同じ番号なのだけはやめてね。

 という本音は置いといて、四枚入りのお洒落なチョコレートをいただいて、これがとても美味。食べるのが勿体ないくらいで、だからというわけではないが、私は二枚だけいただいて、半分はまだ食べないで残してある。気持ちが嬉しかったからだね。

 原稿を書くとき、私にはコーシーと甘いものが不可欠で、我が家にはいつもチョコレートがどっさり買い置きしてある。最近イチ押しのギャグ……、じゃなくて、イチ押しのチョコレートというのがあって、これは〝一日一個限定〟にしているので――、理由:詰め合わせだけど、それなりの値段がするから。

 そのお店にはほとんど隔週で買いに行ってるから、すっかり顔を覚えられたんだな、私。

 顔を覚えられたと言えば、いつも煙草を買いに行くコンビニでも私はすっかり有名人。タスポを持っていないから煙草はコンビニで買うのだけど、買うときは決まってカートン単位。最近はレジに並ぶと、店長ばかりか店員さんまで先にカートンを用意して待ってくれてます。

「何だ何だ、このコンビニは客に商品を押しつけるのか。しかも身体に悪い煙草を」

 私はクレーマーなので、凄んでこんないちゃもんをつけます。

「すいません……、今日は、あの、煙草はいらなかったですか?」
「いるよ。でもせっかくだから2カートンちょーだい。釣りはいらないから」
「すいません、あの……、5000円だと足りないんですが」
「しょーがないねぇ。じゃあ、あと1000円。ほんとに釣りはいらないよ」

 いつもこんな感じで遊んでます。ほんとです。

 というのも、このコンビニに通い詰めているうちに店長さんや店員さんの顔を覚えて、そのうち挨拶をするようになって、そーこうしているうちに一緒に食事をしたりするようにもなったからなんですね。バイトで入っているJDとお茶を飲んだりもしますよ。モノ書きは言葉が巧みでないと勤まらない。というコラムを読んだような気もします。

 私はこんなふうにして、知り合いや友だちを増やしています。あら、お友だちになるのは簡単よ。こちらから積極的に話しかければいい。

 しかし、私がただナンパしているだけだと思ったら大間違い。ただでナンパはできない。ナンパにもお金がかかる……、じゃなくて、いろんな職種の知り合いがいれば、それだけネットワークも広がるからです。これが本音。たぶん。だって私は妻帯者だもの。そんなにしょっちゅう女性に声をかけたりしない。

 余談ですが、JRの〝みどりの窓口〟のチケットカウンターの女性をデートに誘って失敗した場面を猫弾きに目撃されています。ほんとです。喫茶店のウェイトレスさんに、ねぇ、お茶でも飲みに行かない、と声をかけては鯉も飼えません。TPOをわきまえましょう。

 でも、婦人警官をドライブに誘うのは簡単です。すぐに〝彼女〟の車に乗せてもらえる方法を知っています。ただし、座るのは後部座席です。私は彼女たちにナンパされてドライブしたことが何度かあります。挙動不審だそうです。取材相手を張り込んでいたら、ご近所から変な男がうろついていると通報があって張り込まれてしまった私です。

 という本当の話は置いといて、チョコレート。

 原稿を書くときはサッカーのブラジル代表並みに頭を使うので、またそーいうときは糖分補給をしたほうがいいらしく、だからチョコレートのような甘いものをちょっとずついただいているのですが、いただいたチョコレートもそのときいただこうと思いつつ、二枚目まではいただいたけど、どーいうわけか三枚目に手が伸びない私です。

 何故なんだろう? 悩む。二枚目なだけだし、私。読者のフレーズをパクらないよーに。

 というわけで、まりも。

 先週の土曜日(4月11日)には、まりもの上京と就職と歓迎のオフ会が開かれたんだね。これはミクシィ〝××コミュ〟主催のオフ会です。伏せ字には私の名前が入ります。ミクシィ主催の話を学園で書いていいのか、とツッコまないよーに。

 そーいえば、校長代理のけえから聞いたんだけど、先週の10日、この学園サイトには1日で1500件もアクセスがあったんだって。すごいね。そのうち日経ビジネスオンラインに貼ったトラックバックからのアクセスが約500件。運営者はそういったデータがわかるそうなのですが、オンライン以外からアクセスした1000件はいったいどこから来た人たちなんだろう。

 皆さまの入校をお待ちしております。

 入校を希望される方は、左上にある〝ちくわ部〟というカテゴリーをクリックして、そのページのいちばん下にあるコメント欄にハンドルネーム他、自己紹介文などをお書き添えの上、送信してください。ちくわ部への入部がイコール××学園入校という、変わった決まりのある〝銭湯通い〟な学園です。

 ちなみに、銭湯通いとは〝湯に行く〟という意味です。それでも何のことかわからない方はカタカナで読んでみましょう。こーいうジョークをハイブロウと言います。入校案内でした。申し遅れました、私が校長の××です。たぶん。伏せ字には私の名前が入ります。

 というわけで、まりも。

 歓迎オフの前に、まりもに会いました。ちなみに、彼女はこの春、大学院を卒業したばかりの新社会人。たいへん夏の扉です。その日の主役が彼女だったので、私も就職のお祝いくらいはしなきゃいかんな。と思ってオフ会の前に呼び出したのだけど、まりもとはほんとはちょっと真面目なお話――、人と人との距離感やラインのお
話をするつもりでした。

 これは、まりもが以前、家族でも友人でも心の距離があったり、ラインを引いてその距離を保つのはとても難しい。といったコメントをくれたからで、いつかその話をしようね。と約束していたからでした。まだ若いのに、この子は人生のことをとても深く考えています。

 でも、そーいう話はできなかった。何故でしょう? 答えは次の中から。

 1. けえが騒がしかったから。
 2. けえが邪魔ばっかりするから。
 3. けえがふざけてばかりいたから。
 4. けえが人の話を全く聞こうとしないから。

 答え。私がふざけてばかりいたから。

「ところでさ、ちょっと訊きたいんだけど、どーしてきみみたいな子が私の書いたものを読んでるの?」
「えー、だって面白いじゃないですか」
「ダメだなぁ、きみは。そー言ってくれるのはありがたいけど、そーいうときは白犬じゃないですかと言わなければいかんのだ。ほんとに読んでいるのか、きみは」

 こんなことばっかり言っていたからです。

 ということだから、まりもとは今度ちゃんとしたお話をしなきゃ鯉も飼えないね。

 彼女の顔は猫弾きが送ってくれた関西オフのDVDで見て知っていたのだけど、DVDで見るまりもと実際に会ったまりもではずいぶん印象が違います。すでに彼女と会った人はわかると思うけど。

 やっぱり初々しいね。夏の扉です。DVDでは髪をアップにしているように映っているので、あちらのまりもはちょっと大人っぽく見えます。

 私たちは四人掛けのテーブルに座って、私の真向かいがMKくん。その横にけえが座って、だからまりもは私の右隣りに座りました。MKやけえのほうを向いて話して、ちらりと横を見るとそこにはまりものアップがあって、目が綺麗なんだな、この子は。

 ということを書き綴っていくとまた問題になりそうなのでやめますが、しかし白犬だね。

 コメントをくれるまりものイメージと、実際に会ったときのまりもの印象――、想像していたのとはずいぶん違っていたり、イメージとシンクロするところがあったり。これはきっと誰に会っても同じかもしれません。みんなに会いたい私です。

 たとえば、言葉で気持ちを伝えるのは難しいけれど、実際に会って話していると、その場の雰囲気やニュアンスで伝わるものもあって、むしろそのときの声音とか呼吸が意思の疎通を図ることが多い。と私などは思っている。

 しかし、文章にすると、ましてやそれが手書きではなく端末上でのやり取りだったりすると、文面や言い回しだけでは伝わりきらないことのほうが多く、ときとして誤解も招きかねない。というようなことがよくある。

 文章には、知性と、重い槍と、まごころが出ます。つまりは性格が出る。
 声にも、知性と重い槍とまごころが出る。こちらもやっぱり性格が出る。

 で、今回はちょっと文章のお話を。ちょっとと言いながらたくさん書くのが私です。

 字の上手い下手は別にして、手書きの文章ならば、丁寧に書こうとした筆跡が気持ちを伝えることもある。好きな人につくってやる料理と同じだと思うんですね。コーシーでも、好きな人には美味しく煎れてあげたいと思う。出来映えよりも味が大事。そして、味よりも美味しくつくろうとした気持ちが大事。それが料理を美味しくする。

 では、筆跡の残らないネット上での文章で、知性と重い槍とまごころを伝えるにはどう表現すればいいか――?

 インテリジェンスを醸し出すのなんてとっても簡単です。それっぽいことを書きゃいいんだから。堅いことばかり書いてりゃインテリジェンスが滲み出ている文章に見えなくもない。

 ただ、そういう文章を私はほとんど流し読みしてしまうし、すると頭にも残らないし心にも残らない。理由。堅いから。必要な資料であれば否も応もなく目を通さなければならないけど、奥歯を噛みしめながら読まなければならないような文章は、読んでも疲れるだけ。理由。私はたいへんな面倒臭がり屋だから。

 そこで重い槍とまごころというものが必要になってくる。重い槍というのは正しくは〝思い遣り〟と書きます。んなことはわかってる、とツッコまないよーに。

 林真理子という売れっ子作家がちょっと前に言ってました。この世の中でもっとも読みにくいのは、学者と役人が書く文章だと。私も彼女の考えには全く同感で、いまだったら、これにパソコンの解説書や携帯電話の取説も加わるのではないかと思っています。

 何故でしょう? インテリジェンスでのみ書かれているからです。

 彼らにすれば、それなりにわかりやすいように書いているつもりなのでしょうが、それは自分たちのレベルでの〝わかりやすさ〟なんですね。わからない人のための〝わかりやすさ〟が抜け落ちているわけです。わかる人にしかわからないことばっかり書いているお前に言われたかねーや、とツッコまないよーに。

 だから私にも欠けているところがあるけれど、彼らにも〝重い槍〟と〝まごころ〟が欠けているんですね。重い槍は正しくは思い遣りと書く、と書くとくどいと言われるから書きません。

 私の立場から言わせてもらうと、硬い文章を書く人は、知性でのみ生きていこうとしている人たちなんですね。そこには〝情〟というものがない。

 学者は特に、自説を押しつけるだけ押しつけて悦に入っている。ような気がします。そのわかりやすい例が『朝まで生テレビ』という番組。あの番組に出演する学者は、まず人の意見は聞かない。あなたの意見はわかりますがね、と理解の姿勢を見せたあとで必ず否定に入ります。

 その否定が、すなわち自説の押しつけへと発展してゆく。学者というのはそーいうものなのですが。テレビやマスコミへの露出がお好きな学者さんはとりわけその傾向が強いように感じられます。誰とは言いませんけど。

 で、そーいった人たちが世相や経済動向を読んだり、事件や法律を論じる。そーいった本もたくさんお書きになっています。しかし、彼らは〝固形物〟に関しては知的にまとめるけど、〝流動物〟に関してはまずほとんどいい加減なことしか言わないし書きません。ここで言う固形物というのは、主に法律などのきっちり固まったも
の。流動物とは、世相や経済動向や事件の行く末のことです。

 端的な例が〝酒鬼薔薇事件〟でした。少年Aの事件ですね。あのとき、多くの学者が犯人像をプロファイルしました。とりわけ大笑いだったのが、有名な犯罪心理学の権威とかいうセンセイと法医学のセンセイが〝したり顔〟で述べられた犯人像――。

 彼ら曰く、犯人の年齢は30歳前後で、ともするとそれ以上で学生運動の経験がある人物かもしれない。犯行声明の出し方やタイミングといい、この事件は、組織だった行動の経験がなければできない犯行だとか何とか。

 で、蓋を開けてみれば当時中学生の単独行動。そして、少年Aの身柄が確保されてみれば、彼らは一様に目を丸くして〝まさか中学生の犯行だったとは、驚きました〟と。あれだけ偉ッそーにプロファイルしといて。事実ですよ、これ。

 何なんだこいつらは。と笑ってしまった記憶がありますが、経済学者なんてバブルが弾けた頃から〝このままだと日本は沈没する〟と言っていて、昨年末にもまだそんなことを言っていた学者がいますが、私は日本が沈没する気配なんていっこうに感じないのだけど。私が楽観主義者だからでしょうか。答え。単に経済問題に疎いだけ。

 小泉さんが総理の頃には経済学者を財務大臣だかに抜擢したけど、結局は理屈ばっかりで改革らしい改革はほとんどできなかった。その大臣が掲げた政策を他の経済学者が大いに批判するという、見ていてとても楽しい時代でもありました。まさに小泉劇場。

 ということは、学者というのは法律のようにきっちり固まった〝固形物〟を知的に読み解くことはできても、世相や動向のような〝流動物〟に関しては当てずっぽうもいいことを言っているに過ぎない。と私などは冷ややかに見ています。いくら膨大な知性でモノを語っても、はずれてりゃ意味がないんだもの。はずれたところで誰も責任を取らないんだし。そこもお役人さんと同じ。

 純粋な研究の上にまとめられた書物には意味があるけれど、売らんがために書かれた学者の本ほど信用できないものはないのです。テレビに露出して知名度があるとか、顔が売れているから本も売れるという理屈ですが、そーやって出版社は読者を騙します。

 だから、学者や専門家が書いた売らんがための本は危険なのです。彼らが書いたハウツー本やマニュアル本はもっと危険。ハウツーやマニュアルは先人に倣いつつ、自分で編み出してこそ意味があるのです。と、どこかに書いてありました。顔が売れているうちに書いちゃいましょう、と突貫工事で書かれた本などアテにしちゃ鯉も.飼えません。私、ついにギョーカイの掟を破って本当のことを書いちゃいました。どーか忘れてください。

 というわけで、少し脱線して法律のお話を。少しと言いながらたくさん脱線するのが私です。すでにさんざん脱線しているじゃないか、とツッコまないよーに。

 法律というのは、それを破ることを許さない〝ルール〟を綴ったものです。法があるから私たちは安全に、かつ安心して暮らすことができるわけですが、しかし、そのために判例と前例とルールに則った生き方しかできない人たちがいるのもまた事実なんですね。

 それがお役人さん。彼らは、前例や制度だけをとかく大事にする。例外を認めることはまずしないし、しようともしない。それが文章にも表れます。お役人さんが刊行する書物の妻の走ること走ること。サービス案内のどこがサービスなんだろうって首を傾げてしまうくらい。

 よくよく考えれば、法律を制定するのは表向き立法府の仕事ですが、法案の〝叩き台〟を作成しているのは官僚なわけだから、法に〝情〟なんか求めるほうがおかしいのかもしれません。自分たちに都合のいい利権絡みの法案はすぐつくりますけどね。ETCの導入とか地デジへの全面移行とか。

 すると、それを管理する独立行政法人が必要だとかぬかして……、もとい、仰って結局はてめえたち……、失礼、自分たちが天下るための法人をばしばしつくる。法案作成イコール天下り先の確保。国家と国民のための奉仕より、まずは我が身の安泰とレールづくり。というのが知性ある方々の理屈です。それを封じようとしている政治家もいるみたいですが。

 しかしですね、私は思うのですよ。

 例えば刑法ですが、刑法には人を罰することばかりが何百項目にもわたって延々と綴られています。あーいうことをすると罰金だとか、こーいうことをすると禁固もしくは懲役に処するとか。つまりは〝科罰〟の経典です。科罰とは処罰のことです。

 そこで私は考える。どこで、とか訊かないよーに。

 人を殺めた人には罰が与えられる。これは〝加害者〟に対する処罰です。その最高刑が死刑。しかし、加害者がいれば当然〝被害者〟がいるわけで、遺族がいるのです。たいへん不思議なことに、法律は加害者に対する処罰は明記してあるのだけど、被害者と遺族は放ったらかしなんですね。

 遺族には突然の不幸に見舞われた〝悲しみ〟があるはずなのに、その悲しみを癒してやろうとする〝法律〟はない。極刑をもって罪人に償わせ、極刑をもって遺族の悲しみを癒そうとするのであれば、実に原始的な発想だ。と私などは思うわけです。法は弱者の味方だなんて謳っておきながら、実態は〝目には目を〟のハムラビ法典に則っているだけなのですから。

 争いの場を民事に移せば〝賠償〟というかたちで償わせる訴訟は起こせますが、要は金で解決しろと。あなたの家族が殺されたら、殺したやつに賠償金を支払わせて〝奪われた命〟とちゃらにしなさい。と言っているのが法律です。

 そーいうものなのでしょうか、世の中っていうのは。学生時代は法科に籍を置いていたのだけど、私にはずっとそれが疑問だったんですね。

 誤解を招く覚悟で言えば、法律は罰を与えることしか考えていない。罰することにのみ腐心し、被害者や遺族の心の傷を癒すことなんかこれっぽっちも考えていない。私は、それじゃ鯉も飼えないと思うんだな。

 心に傷を負った人たちが一日でも早く悲しみを乗り越えられるように、そして、そういった人たちが一日でも早く立ち直れるように、法律がそのサポートをすべきではないかと。それが近代国家の法律なのではないかと思う私です。

 法律を制定する立場にある人たち、その叩き台を作成する立場にいる人たちには、そーいった考えがないのだろうね。私が残念に思うのは、本当に手を差し伸べるべきところにインテリジェンスが活かされていないということです。彼らの知性は、天下り先を確保するための法案づくり――、つまりは堅くて難解な文章を書くことにのみ費やされている。政治家になろうかな、私。

 裏を返せば、堅いことを書いてりゃ知性の発露だと思い込んでいる〝幼い考え〟の人たちが学者とお役人さんということにもなる。と私などは思っています。だから私は文章でインテリジェンスを醸し出すのは簡単だと言いました。だって、わかる人にだけわかることを書いてりゃいいのですから。

 小難しい単語が並んでばかりいるとか、内容が難しすぎてよくわからないとか、多少の専門的な知識がないと読み込めない文章というのは、わからねぇやつは読まなくていいよ。という〝切り捨て〟の文章なんですね。あるいは、知りたけりゃ自分で勉強して来い、と。私は、これと非常によく似た表現を知っています。

 過去ログ読んで出直して来い――。

 皆さんもこういった表現を目にされたことが一度や二度や三度や四度……、あるいはもっとあるかもしれませんが、こういう言葉遣いには重い槍もへったくれもあったもんじゃない。と、思いませんか。それとももう、こういった表現を目にすることに馴れちゃったかな。

 で、重い槍とまごころ。そして、文章に表れる性格。

 虎の巻をひとつご披露しましょう。文章が巧くなるコツ、読ませる文章を書くコツです。プロが言うのだし、それを実践している本人が言っているのだから嘘じゃありません。たぶん。

 一言で言ってしまえば、〝五感〟で書けばいいのです。そのとき、自分を出す。

 これだけ。

 実に簡単。以上――、というわけにはいかないだろうし、このネタは以前にも使っているだろうとツッコまないよーに。

 五感というのは文字どおりの五感で、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚のこと。

 自分というのは、自分が何者であるかということをオープンにすることなんですね。

 たとえば、春の小川で生まれたてのメダカの学校を目にしたとする。そして、それを文章にするとする。こんな感じで。

『春の穏やかな陽光がきらきらと反射する小川で、生まれたばかりの小さなメダカが群れをなして泳いでいた。それがとても可愛らしくて、つい見とれてしまった』

 これでもいいし、雰囲気は伝わります。雰囲気だけで伝えるのもテクニック。

 でも、小川に手を入れてみて、それを文章にすると雰囲気はグッと変わるんですね。それが〝五感〟で書くということです。

 手を入れてみると、川の流れは思っていたよりも速いことがわかるかもしれないし、雪解け水で思っていた以上に冷たいかもしれない。すると、そんな冷たい水の中でも必死に泳いで、生きようとするメダカに対する気持ちも変わってくる。それが〝自分を出す〟ということにつながっていきます。

『通り過ぎる風が頬に心地よく、淡く緑色に芽吹いた木々に春を感じるようになると私たちは冬の装いを脱ぐけれど、ちょっと触れてみた春の小川はまだとても冷たい。でも、小さなメダカたちは、この冷たい水の中を泳いでいる。流れに逆らいながら、仲間からはぐれないように。私は、メダカたちから目を離すことができなかった。そして、思わず呟くのだ。頑張れよ、と。私は、私の心にも春が来たような気がした』

 たいがい私はこんなふうに書いてしまうのだろうけど……、くどいな。ちょっとくどいな。サッカーのブラジル代表並みにくどいな。いや、思いッ切りくどいな。あまり参考になる文章とは言えないけど、これは〝喩え〟ということでご勘弁。

 しかし、こーいう文章を添えることで、ニュアンスはがらりと変わるはずなんですね。そこには、私という人間の〝視点〟と〝自分〟が出ているはずだから。たぶん。だから性格も出ます。文章教室を開いているみたいです。ほんとに開こうかな、私。

 そして、最初に書いた〝とても可愛かった〟という表現。あなたが〝可愛い〟と思う基準を説明することが大事なんですね。それが自分を出すということ。

 顔を覗き込むと無邪気に笑う嬰児は可愛い。何故――?
 生まれたての子猫は可愛い。何故――?
 小川で泳ぐメダカが可愛い。何故――?

 もっとわかりやすく言うと、彼は優しい、という表現をした場合。優しさについても受け取り方は人それぞれなんですね。事件取材などでは毎回のように経験します。容疑者のご近所で聞き込みをすると、安奈……、じゃなくて、あんなに優しい人が、という証言を耳にすることがしょっちゅうある。

 そーいうときは、その人にとっての〝優しさ〟を把握しないとコメントとしても使えないんですね、私たちは。ある人は、レストランに行ったら椅子を引いてくれる男性を〝優しい〟と言うわけだし。

 あるいは、これだけ言ってもまだわからないか、と頬を引っぱたく男性を暴力的だと言う人のほうが多いだろうけれど、私にすればそれだって〝優しさ〟のひとつじゃないかと思わなくもなかったりする。手をあげるほうだって心は痛いのだし、それをわかって頬を張っているのであれば、激烈な優しさと言うことだってできるのですから。そのための取材でもあるわけですが。

 しかし、五感と自分を出しながら文章を書くというのはそーいうことです。

 重い槍とまごころというのは、相手や読む人をいたわる気持ちだけじゃない。どう書けばうまく伝わるか、読む人のことを意識しつつ、そこに自分をさらけ出しているか――、で文章は変わってくる。そこをお忘れにならないよーに。すると、それっぽい文章ができあがります。なんてね。

 土井スルーな方はとっくにお気づきでしょうが、自分を出すということは〝人を描く〟ということなんですね。ものすごい虎の巻なんだな、これ。私はけちん坊だからちょっとと言わずたくさんモザイクをかけますが、人が描かれていない文章は無機的にならざるを得なくなり、だから妻が走る内容で終わる。

 人を描くというのは、そのときのちょっとした仕草を書くだけでもいいんです。

 学者や役人が書く文章、法律、そして取説には人が出てきません。制度やシステムや解説が知性でのみ語られ、だから実に無機的で心に残らない。という理屈。私はそんなことをとうとうと述べてきたけれど、とうとうと述べている間、私は一人も〝人〟を登場させていないんですね。だから、きっと無機的で読みにくかったはずです。法律のことなんかも書いちゃっているから、堅くも感じられたはず。

 言葉を文章にして表現するというのはとても難しいことなのだけど、友だちとのつきあいや人を好きになる気持ちだと思えば難しいと感じることも臆することもないんです、実は。こいつが何か喋ると必ず恋の話に行く、とツッコまないよーに。

 何を話しても私は恋の話に結びつけることができますよ。何故なら、私は〝愛〟がなければ生きていけないからです。まりもには〝i〟を付け忘れたくせに、とツッコまないよーに。

 というわけで、誰かと友だちになる。誰かを好きになる。そのときにどーするかというと、始まりはやっぱり自分をオープンにすることからなんですね。自分を出さず、本心を隠しながらダチとつきあうことはできない。自分を出さず、隠し事をしながら人を好きになることもできない。

 と、私は思っている。自分から自分を出すことをしなければ、相手だって身構えたままでしょうから。互いに警戒心をいだきあったり、腹を探るようなつきあいをしたって本物にはならない。

 こんな言葉があります。キスのとき、瞳は閉じても心は開く――。

ある二枚目がこんなことをしょっちゅう言ってます。という冗談は置いといて、相手の心を開かせるには自分が心を開けばいいわけで、文章もこれと同じだと思えば難しいことなんか何もない。自分を出すとは、そーいうことです。

 ただし、自分を出し過ぎて〝ひとりよがり〟にならないよーにご用心。自分を出すことより、こっちのほうが難しいんですけどね、ほんとは。

 そこで常連さんの話。唐突ですが。どこで、と訊かないよーに。

 常連さんとはどういう人たちを言うのか――?

 ということをちょっと前にミクシィのほうで書いた記憶がありますが、私が〝戯れ言〟で取り上げた人たちというのは、実は、コメントの中で〝自分〟を出していた人たちでした。その人にはもう30年も弾き込んでいる大切なギターがあるとか、その人は周りを笑わせるのが得意なお子さんがいて、その子が風邪をひいたときに寝顔を見たら涙が出てきたとか。

 他にもありますよ。もちろん白犬なコメントも取り上げましたけど、どーしていつも爽やかなコメントを送ってくるんだこいつは、と思わせてしまう人とか、こんな失恋しちゃいましたという人や、今日が誕生日だったとか、11月20日にお子さんが生まれた人とかエトセトラエトセトラ――。

 その人の生活の一端が見えたり、その人の感情が見えるコメントは、読み手である私の興味をひく。好奇心を抱かせる。すると、この人に会ってみたいと思わせる。こーいうことなんですね。言葉にはそれだけの広がりと魅力があるのですよ。

 すると、余談だけど、私がどーして安奈……、じゃなくて、あんなお題を出してきたのかもおわかりいただけるかと思います。勇気というお題ひとつ取ってみても、さまざまな考え方がある。勇気をこんなふうに考えている人もいるのか、と勉強になる。私はとても勉強になった。

 身内ノリがどーちゃらと言っていた人たちは、残念だけどそこまで読みきれていなかったようですね。わずか500字のコメントの中にも〝その人〟が描かれていることに気づいていない。コメントは宝の山だとあれほど言っていたのに。歯医者さん行きだね。

 というようなことを、本当はまりもとお話したかった私です。

 人と人とのあいだにはどうしても埋められない距離や、逆に意識的に置かなければならない距離というものがあって、しかし、その距離は、自分が心をどう開くかによってうんと近くすることもできるし、遠ざけてしまうこともあるのだ。ということをだね。

 人を遠ざけるのは簡単だけど、遠くにいる人に近づくのは容易なことではなく、そのとき自分が〝何を求めているか〟で心の使いようがある。という話でもあります。たとえば、新しくできた友だちや好きな人に対して――、

 傷つくかもしれないと思ったときに、あなたはその人に心を開けるか。
 傷つくだろうことを承知で、それでもあなたはその人に心を開けるか。
 傷つくかもしれないと思ったときに、自分は心を隠して相手の心を探るか。

 家族に対しても同じだね。どれを選択するかで、その人の〝性格〟がわかる。

 傷つくことを怖れている人は、おそらく心を開かない。相手を喋らせるには相手以上にこちらが喋らなければならないのと同じように、相手の心を開かせるには、やっぱり自分から心を開いていかなければ鯉も飼えない。と私は思います。

 文章にも同じことが言えるんですね。無機的なものを書いたっていいのだけど、その文章に書いた人の〝素顔〟が見えるようなもののほうがよほど白犬で、文章が気持ちを近づけたり遠ざけたりすることはある。のではないかと。

 人柄を感じる文章は素敵です。その人の優しさが伝わってくる文章は、とても美しいです。私が書いたもので誰かの気持ちが癒され、誰かの心に優しさや勇気が芽生えてくれたら、私はとても幸せです。私は、いつもそんな文章を書きたいと思っています。嘘つきはいつも嘘をつきます。口が巧くなければモノ書きは勤まりません。

 しかし、私の書いたものを読んだ人は、××というモノ書きは絶対に二枚目に違いないと思うわけで、まりもや猫弾きのように実際に私と会った人は、やっぱり二枚目だったと思っているに違いなく、まりもにはその証拠をいくつか提示したのですが、たいへん困ったことに、この子は私が20歳になったときに生まれているんですね
。何てったって24歳だもの。夏の扉です。

「あのな、きみ。いまもそうだが、若い頃の私はそれはそれは厚顔……、じゃなくて、紅顔の美少年で、原宿や青山あたりを歩いているとしょっちゅうスカウトされたんだぞ」

 ほんとですか、とまりも。
 ほんとだとも、と私。

「しかしだ、こーいうときは、わかるような気がします、というのが大人の女の証しだ。精進したまえ」

 まりもはとても素直ないい子です。私の言うことをよくききます。

 ほんとによく声をかけられたんだよ、私。背後から肩を、ぽん、と叩かれ、きみ、いい身体してるな。自衛隊に入る気ないか、とか。というのは冗談ですが、モデル事務所とかそーいうところからはハンザツ……、じゃなくて頻繁に誘われました。どーいうわけか最近はありませんが。

「私はしょっちゅうディスコで踊り狂っていたのだが、そこで東京キッドブラザースのメンバーに勧誘されたこともあるのだぞ。それくらい私のステップは軽やかで、だから正真正銘歌って踊れるモノ書きなのだ」

 というさらに本当の話をしたところ、まりもはきょとんとした顔つきで、東京キッドブラザースを知らず、さらにディスコを知らないと言う。最初は冗談かと思った私。しかし、スーダン国境近くのエチオピアの町で知らないらしい。

 ディスコを知らないということは、日付が変わる時刻と閉店間際に店内の照明をうんと落としたチークタイムがあることを知らず、そのとき、どの女の子をチークに誘おうかというあのスリリングな一瞬を知らないということでもあり、ミラーボールの瞬きの中、チークダンスを踊りながら囁きあうあのうっとりするような喜びを知らないということではないか。

 あの良き時代はいまいずこ。これで青春も終わりだと呟いた私です。大阪生まれじゃありませんが。まりもが生まれる前の流行歌です。わかる年代の人にしかわからない話ですみません。

 というわけで、先週、けえ校長代理が新聞部員募集の告知を出したので――、この子は本当に行動が早いんだな。土曜日にそーいう話をしたら翌日曜日にはもう告知されてる。しかも、もう記事が掲載されている。驚き。仕掛けてますな。

 他にもいくつか企画を聞かされていて、そちらもそのうち動き出すのでしょうが、とりあえず新聞部が活動を始めるとのことなので、今回は文章についてちょっとばかり触れてみました。全然ちょっとの分量じゃないじゃないか、とツッコまないよーに。驚き。すでに14000字超えてます。今回はけえの携帯からアップする予定なので、リミットは15000字です。

 というわけで、この週末はいよいよ琵琶湖BBQオフ。黄金週間には早くも第二回中フ連サミットが開催される予定だとか。何のことかわからない方はミクシィ〝×××コミュ〟を覗いてみてください。伏せ字には私の名前がフルネームで入ります。アカウントをお持ちでない方への招待状もあります。

 BBQオフにはホットなメンバーが集いますが、熱さで琵琶湖の水が干上がらない程度に盛り上がってください。晴れるといいね。みんなで楽しんでね。

 前回、挨拶文のようなものを書いたら〝表〟を上回るくらいのコメントが寄せられて、その中で、つなとヂるのコメントで感じ入るものがあったので、今回はこーいうことを書いてみました。

 自分を出してこそ文章は光ります。理論武装された文章には、温もりが感じられない。
 自分を出してこそ自分も光ります。心の武装を解いたとき、あなたの温かさも伝わる。

 私は、そう思います。

 というわけで、今回もコーシーとチョコレートをいただきながら書きましたが、どーいうわけか三枚目のチョコレートには手が伸びない私でした。何故なのだろう。悩む。二枚目なだけだし、私。では。


追記:けえより
配達遅れました。大変申し訳ないです
校長より伝言です。
オーヤや前世紀のことを
名指しで否定してるわけじゃぁないんだよ、ですって。
じゃあどういうつもり?と突っ込むよーに(笑)


『サラブレッドの系譜――、ご挨拶代わりに』 [校長室]

××です。伏せ字には私の名前が入ります。

 というわけで、今回は学園視察。
 何を視察するかというと、校内において不純異性交遊をしている羨ま……、じ
ゃなくて、鯉も飼えないことをしている不良がいないかをチェックするためです
。校内での飲酒と喫煙は許可ですが、密かに牛を飼っていたりしないかも調べま
す。ロフトで野良猫が集会を開いていないかも調べます。

 嘘です。ぼやきに……、じゃなくて、ナンパされに……、でもなく、ザレゴト
りに来ました。ザレゴトル、なんて日本語は聞いたことがないとツッコまないよ
ーに。

 けえのやつが言うんですよ。今度学園に行くよ、と連絡したら、はぁい、校長
センセイのぼやき、お待ちしてま~す、とかいうレスを返してきやが……、では
なく、お返しになられた。で、ぼやきではない、私はザレゴトリに行くのだ。と
返した私です。

 というわけで、ぼやきに……、じゃなくて、ザレゴトります。

 しかし、出張や視察のたびに戯れ言っていては芸がない。

 ここは芸人としての腕の見せどころ。モノ書きじゃなかったのかとツッコまな
いよーに。コンビ名は〝わいジるック☆アソブ〟です。芸名がどんどん変わりま
す。トリオじゃないのか、と校長センセイにツッコまないよーに。

 というわけで、今回は少し趣向を変えたお話――、私が出版界で〝サラブレッ
ド〟と呼ばれているお話を。ただし、このお話はウィキペディアに書き込んでは
鯉も飼えません。これを書き込まれると鬱陶しいことになってしまうので、削除
を要請することになると思います。嘘だと思って書き込んでも鯉は飼えません。

 以上、前振りでした。うらふりがあるのだから前振りもあります。では本編。

本編はこちら


あたたかい北風の吹く街より ~ Page‐4 コンタクトをつくんなきゃ! [校長室]

 あッ――、と思った瞬間に、それは私の親指と人さし指のあいだをするりと滑り落ち、洗面所の排水口に吸い込まれていった。

 なんてこった。

 私の部屋の洗面所には、流れ止めの〝ふた〟がないのだ。
 気をつけていたのだけど。

 懐中電灯を引っ張り出して、管のなかを覗き込む。
 S字に折れ曲がった排水の溜まり口に濁った光が反射して、お目当てのものもそこに浮いているようないないような。
 ストローを突っ込んでみたり、配水管を取り外そうとしてみたけれど、管はしっかり締めつけられていて、びくともしない。

 どうやら、選択肢はひとつしかないようだ。
 つまり、あきらめろと。
 私は、新しいコンタクトをつくらなければならない。

          * * *

コンタクト?メガメ?それとも。。。


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あたたかい北風の吹く街より Page‐3 バスターミナルの18時、そして私は―― [校長室]

今日も混んでいるな――。

 私は思わず舌打ちだ。と言っても、肌と肌が触れるほどの混みようじゃない。
 だけど、右折や車線変更のたびに、周囲の人にぶつかり、すみません、と詫びなければならないのには閉口している。

 どうやら、私はとりわけ車の搖れには敏感らしい。
 脚力が弱いわけがないのだけど、それ以上にシドニーのバスが搖れるのだ。それもすっごく。嫌になってしまうくらい。

 それだけじゃない。左折すべきところを直進してしまったバスがいつの間にか本来のルートに戻っていたり、そしてたまに、本当にごくたまにだけど、脱輪のサービスもある。

 ベンツ製の大型バスは、今日もガタゴトと搖れている。


       * * *

続きを心で読む


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あたたかい北風の吹く街より Page‐2 さあ、どれにする―? [校長室]

 私は、シドニーのとある現地事務所にフリースペースで机を借りている。

 オフィスに顔を出すのはたいがい午前十時をまわった時間だ。お昼を過ぎることも少なくはない。まるで重役出勤のような気分で、私は毎日部屋を出る。

 ネクタイを締めるのは最初の一週間でやめた。

 なまじネクタイなんかしてデスクに座っていると、私を駐在員と間違えた来客が提出書類の不備を教えてくれと訊ねてきたり、ランチタイムで同席したビジネスマンが高値記録を更新中の為替レートの天井予測を迫ってきたりするからだ。
 彼らには、私がバンカーか証券ディーラーのように見えるのだろうか。肩までかかるような長髪だってのに。

 以来、膝の擦り切れたジーンズとおろしたてのスニーカーが私の定番になった。
 この格好なら、私はバイトくんですという顔をして平然としていられる。

 お昼近い午前、シティーの中央を走るエリザベス・ストリートで私はバスを降りる。屋外イベント会場によく利用されるマーティン・プレイスの石段を駆け下り、ちょっとした広場と言ってもいい広いバラックス・ストリートを横切る。

 私はもう、すっかり〝シドニーっ子〟のような顔をして街を闊歩している。

 広場の両側は、バンを改造した花屋と果物屋が毎日店を出している。
 赤や紫をちりばめた色鮮やかなブーケが一束二ドル。エプロン姿のおじさんの笑顔はチャーミングで、いつも陽気にラッピングをしている。

 荷台に山積みされた果物屋の前にも列ができている。
 アタッシュケースをさげたビジネスマンが、一個だけ買った林檎をその場で噛じる。
 女性の胸に抱えられた紙袋からは洋梨がのぞいている。
 バラックス・ストリートを横切るときの変わらない光景だ。

 トニーの店は、広場の行き止まりの角にある。
 オフィスに顔を出す前、彼の店に寄って英会話の軽いウォーミングアップをこなすのが私の日課だ。

 トニーはちょっとだけジョージ・マイケルに似ていて、左の耳にピアスを空けている。
 今朝もまた、カウンターについた肘に頬をのせ、顔を左右に振りながら、鼻歌まじりに私を迎え入れる。こじんまりとしたスーパーの若い経営者のレパートリーはアメリカンロックが多い。今朝の曲はボン・ジョビだ。

 おはよ――、と言いかけて、私は時刻を確認する。
 前に一度、昼過ぎにおはようと挨拶して、もう午後だぜ、とトニーに言われたことがあるからだ。首でリズムをとりながらトニーが応える。

もっと読む⇒ぽっち!!◎◎◎


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あたたかい北風の吹く街より Page‐1 [校長室]

  晩夏の風に誘われて、深夜の散歩に出た。
 気分は、ルソーの〝孤独な散歩者の夢想〟といったところ。
 左手はシドニー湾、右手は住宅街だ。街はいま、静かな眠りのなかにある。

 シティーの灯りを正面に、ローズ・ベイからワトソンズ・ベイへ向かって歩く。
 防波堤で囲まれた入江は、片仮名の〝ノ〟の字を描いて穏やかに湾曲している。
 歩道にもたれかかるように茂った樹々が潮風に揺さぶられている。

 シドニーの〝北風〟はあたたかい。何故なら、南半球にあるからだ。この国に吹く風は、南風が冷たく、北風があたたかいのだ。

 防波堤に打ち寄せる波音、その繰り返しが、うたかたの余韻を残してはじけていた。

 私は、肩にかけたジャケットを左手に持ちかえた。

 防波堤では、恋人たちが身体を寄せあっている。囁きあう二人の会話より、私の足音のほうが大きいかもしれない。だから、彼らの邪魔をしないように、そっと静かに通り過ぎる。

 そのさきから、オレンジ色の街頭に照らされた三人連れの男性が歩道いっぱいに歩いてくる。イギリスで一度、パンクスの兄ちゃんたちに取り囲まれたことを思い出した。

 質の悪い兄ちゃんたちじゃありませんように――。

 すると、私に気づいたらしいいちばん右の彼が、身体を少し左へそらして道を分けてくれる。内心では身構えながら、何気ない顔を装って彼らとすれ違う。そして、ほんのちょっと安堵する。部屋を出てから、まだ五百メートルも歩いてないってのに。

  防波堤に沿った歩道を歩き続けると、今度は夜釣りを楽しむひとたちに出会う。
 私は、ずっとここに住んでいる地元を気取って、彼らに声をかける。

 こんばんは。釣れてる――?

 返ってきたのは、かなり聞き取りにくい英語だ。オーストラリア英語にはかなり癖がある。それはアメリカの南部訛りとも違って、どちらかと言えば東京の言葉に対する関西弁に近い。でも、関西弁にあたたかみが感じられるように、オーストラリアの言葉もあたたかい。聞きようによっては、喧嘩しているみたいだ、というひともいるけれど。

「ぼちぼちかな」

 釣り人の声の調子から推測するに、釣果はさほど芳しくないようだ。
 なるほど。覗き込むと、人さし指くらいの小魚が数匹、迷子になった子供のように青いバケツのなかでうろうろしているだけだ。

 これって、食べられるの?

「食えるよ。でも、おれは食わない。ただ釣ってるだけだからな。帰るときには海に戻してやるんだ」

 ふーん、そういうものなのか。キャッチ・アンド・リリースというやつなのだろう。

 私は、釣り人が垂れた糸のさきに目をやった。が、火をつけた煙草を吸い終えても浮きが反応する気配はなく、私は彼に別れを告げる。彼は浮きから目を離さず、あぁ、おやすみ、と空いていた右手を軽くあげた。

 防波堤は、ローズベイ・パークの森の手前で途切れている。

 月明かりに見守られた森はかなり大きく、こんもりと茂って濃い影に包まれている。寝息が聞こえてきそうなほどに、ひっそりと静まっていた。波音のほかは、梟の鳴き声も聞こえない。栗鼠や鳥たちも眠っているのだろう。月明かりが森の番人のようだ。

 森の手前まで来て、私はいま来た道をひき返すことにした。真っ暗な森に踏み入るには、ちょっと怖いような気もするし。

 再び防波堤の入江――。

 湾をまたいだ向こう側には、シティーの灯りが瞬いている。
 深呼吸をするかのように、潮の香りを思いきり吸い込んだ。
 深夜のそぞろ歩きに、私は、まだちょっとどきどきしている。

続きを目で読む!


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